5回目の開催となったWBCは見事侍ジャパンが優勝し、王者を奪還しました。個々のプレイヤーがクローズアップされる中でとりわけ話題になっていることの一つに佐々木朗希選手と宮城大弥選手の仲の良さがあります。仲睦まじいツーショットが度々ニュースになっていますが、二人はどうしてこんなに仲が良いのか?それには誰もが納得の理由がいくつもありましたので、今回は佐々木朗希選手と宮城大弥選手の仲良しの秘密を徹底的に深堀していきます。
佐々木朗希と宮城大弥が仲良しなのはなぜ?それぞれが体験してきた辛い過去
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佐々木朗希選手と東日本大震災
「3月11日は毎年、特別な日。試合でたくさん投げて勇気や希望を届けることができるように頑張りたい」
岩手県陸前高田市出身の佐々木朗希選手にとって3月11日は多くの人と同じく忘れることのできない特別な日。
津波によって大切なひとを失った、佐々木朗希選手はそうした人々の中の一人でした。
3人兄弟の真ん中に生まれ、お兄さんの影響で野球を始めた佐々木朗希選手。
地元では葬儀会社に勤め周囲からの人望も厚かったという父・功太さんに「朗希は将来プロ野球選手になる」と見込まれ一緒にキャッチボールをした公園や自宅は津波によって流されてしまいました。
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多くのメディアで報じられていますが、佐々木朗希選手は津波によって父・功太さんと祖父母を亡くされています。
大好きな野球に打ち込むことで辛い過去を乗り越えてきたという佐々木朗希選手。
佐々木朗希選手を知る周囲の方へのインタビューによれば、佐々木朗希選手は決して弱音を吐くことがなかったそうです。
高校進学時には県外の私立高校から来るオファーを断り、地元岩手の大船戸高校に進学。
震災で傷を負った地元に野球で恩返ししたい、そうした想いもあったという佐々木朗希選手。
佐々木朗希選手に声をかけられて同じ大船戸高校に入学した友人もいました。
大船渡高校野球部時代のチームメイトによれば、
佐々木朗希選手は周囲への気配りをとても大切にするタイプだったそうです。
投打共に優秀なプレーヤーだった佐々木朗希選手は、
チーム全体が良いムードで結果が出せるようにいつも気を配っていたといわれています。
「時間が経つと忘れてしまう。野球も、負けた悔しさとか、そういう気持ちって忘れてしまう。でも、それをどれだけ思っていられるかが大事」。
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インタビューでそう話す佐々木朗希選手にとって、
いま野球に打ち込める日々や共に野球が出来る仲間がいるということは過去の出来事を忘れず大切に想い続けることへと繋がっているような気がします。
WBCで見た佐々木朗希選手の屈託のない笑顔や、少年のように野球を楽しむ姿はそうした想いが根底にあるのかもしれない、そんな風に思います。
次にご紹介する宮城大弥選手との関係性も、佐々木朗希選手の経験した過去とそれに対する想いによって築かれたものなのかもしれません。
経済的に苦しかった宮城大弥選手の少年時代
沖縄県宜野湾市出身の宮城大弥(ひろや)選手。
生まれた年は佐々木朗希選手と同じ2001年。
8人兄弟の7番目に生まれた宮城大弥選手は経済的にとても苦しい少年時代を送りました。
「アパートの6畳1間でした。部屋が狭かったので、冷蔵庫はベランダに出していたんです。テーブルが部屋の真ん中にあって、寝るときはどかして布団を敷いていました」
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宮城大弥選手の一番のファンでもある父・亨さん。
亨さんは中学3年生の時に交通事故に遭い、左手に障害を負ってしまいます。
当時はそうした障害を負った方が職に就くことはとても難しい時代だったため、
宮城大弥選手の家庭は苦しい経済状況に置かれていました。
宮城大弥選手が野球を始めたのは小学校4年生の時。
当時からずば抜けた野球のセンスを秘めていたという宮城大弥選手は上級生に交じって着実に上達し、チームの中でも活躍する存在になっていきます。
順調に腕をあげていく宮城大弥選手でしたが、生活は変わらず苦しかったそうです。
野球を続けることで生活に負担がかかることを心配した宮城大弥選手は、野球をやめたほうがよいかと父・亨さんに尋ねたこともあったそうですが、そんな時でも亨さんは絶対に諦めず野球を続けて欲しいと伝えました。
その後、2015年の中2で沖縄選抜に選ばれ、アジア太平洋選手権では準優勝。
野球の名門校「興南高校」に進学。
そして1年の夏と2年の夏には甲子園出場、U-18の日本代表に選ばれるなど着実に野球のキャリアを築き上げていきます。
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「苦しい時に、下ばかり向いても意味がない。苦しいときだからこそ、笑って前を向こうと思っていました」
宮城大弥選手は、とあるインタビューで当時のことをそう振り返っています。
また、少年時代に宮城大弥選手の才能を妬んだチームメイトからいじめを受けていた時にも父・亨さんからこんな言葉をかけられたといいます。
ウチが貧しくって、お前にまで迷惑をかけて、ごめんな。でもな、悪く言うチームメートを許してあげろ。チームメートに代わりはないんだ。お前が投げている時、誰がバックを守ってくれるんだ。
辛い状況でも前を向き、仲間を大切にする。
宮城大弥選手のそうした姿勢は、東日本大震災で家族を亡くされても前向きに野球に打ち込み仲間を想う佐々木朗希選手と相通じるものを感じます。
佐々木朗希と宮城大弥が仲良しなのはU-18日本代表での屈辱がきっかけ
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佐々木朗希選手と宮城大弥選手は2019年の高校3年生の時に韓国・機張(キジャン)で開催された「第29回WBSC U-18ベースボールワールドカップへ出場する侍ジャパンU-18代表にそれぞれが選出されていました。
スーパーラウンドの韓国戦で、佐々木朗希選手は先発マウンドに上ったものの、試合前に右手中指のマメが痛み出し、1回を投げたところで無念の降板となってしまったのです。
宮城大弥選手は、この試合で「6番レフト」で先発し、途中からはライトに回っていました。佐々木朗希選手の緊急降板を受け、待機していた投手を総動員するなかで、4番手として2点リードの7回からマウンドへあがった宮城大弥選手。
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3回を投げ打者15人に対して5安打2奪三振と奮闘しましたが、味方のエラーもあって2−2の同点に追いつかれてしまいます。
試合は延長の末、4-5と逆転負け。
翌日のオーストラリア代表戦にも敗れて5位に終わり4大会ぶりにメダルを逃してしまったのです。
こうして、日本代表として上がったマウンドは、二人にとって悔しい思い出となってしまいました。
それぞれが経験してきた過去の先で出会った二人
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U-18でのこうした経験を共有したこともあってか、当時から二人は既に意気投合し、公私ともに親交を深めてきました。
沖縄出身で朗らかな性格の宮城大弥選手と、岩手出身の朴訥(ぼくとつ)な佐々木朗希選手はどこか馬が合うようですね。
なによりもそれぞれが少年時代に経験してきた過去に、
二人の強い結びつきを感じざるを得ません。
佐々木朗希選手は今でもオフシーズンには岩手へ帰り、当時の仲間と汗を流すそうです。
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宮城大弥選手は「一般社団法人宮城大弥基金」という基金を設立し、
経済的な理由で将来を断念する子供が出ないようにとの想いで活動されています。
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佐々木朗希と宮城大弥が仲良しなのはなぜか?まとめ
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いかがでしたでしょうか。
WBCで見た佐々木朗希選手と宮城大弥選手が度々カップルの様にイチャイチャしている可愛い様子の理由には、こうした二人の関係性がありました。
侍ジャパンのメンバーはそれこそすごい先輩ばかりですから萎縮してしまいますよね。
若手の二人がいつも一緒にいたのもうなづけます。
佐々木朗希選手、宮城大弥選手擁する2001年生まれの選手は豊作の年と言われていますし、
今後の活躍がとても楽しみです。